オシムさんの隣で過ごした3年半 元通訳 間瀬秀一 × 佐藤勇人
「褒めてもらったことはなかった」。イビチャ・オシムさんが来日した時、最初の3年半をすぐそばで過ごしたのが、通訳を担当した間瀬秀一さんです。一番近くにいたからこそ知るエピソードを、ともにジェフ千葉で過ごした佐藤勇人さんが聞きました。
【通訳として初めての仕事がオシムさん】
佐藤勇人)
よろしくお願いします。
間瀬秀一)
お願いします。
勇人)
僕ら選手がいないところでオシムさんと(通訳の間瀬さんと)の間でどんな話があったのかめちゃくちゃ興味があって、秀さんに話を聞きたかったんです。
まずはオシムさんの通訳になったころのことを教えてください。
間瀬)
クロアチアの2部や3部のリーグで選手としてプレーしていたんだけど、引退した。
次は日本のJリーグで仕事をしたくて、手始めに通訳になりたいと思ったから語学学校に通っていたんだけど、半年勉強したころにオシムさんの通訳が決まった。
学期の途中だけど、オシムさんの通訳として帰国することになったと先生に伝えたら、先生が「えーー!もう1回言ってみろ」、「この語学学校のいちばんの出世頭だ!」って。
オシムさんってそれくらいすごい人なんだよな。
間瀬 秀一さん
JFL ヴィアティン三重 監督。選手としてアメリカやクロアチアでプレー。2003~2006年、ジェフユナイテッド市原(現 市原・千葉)でイビチャ・オシムさんの通訳を担当。その後、Jリーグのチームでのコーチや監督のほか、モンゴル代表の監督も経験。
勇人)
ジェフでオシムさんの通訳になって、シーズン前の韓国キャンプから合流したと思うんですが、どうやってオシムさんを理解していったんですか?
選手からしたら、「水を飲みに行くにも走れ」、「(飲んだら)走って戻ってこい」とか言われて、今までとまったく違うなって思っていました。
選手の中では「これ保たないよな」なんて言葉も出ていたんですけど、秀さんは不安はなかったんですか。
間瀬)
不安はなかった。
良くも悪くもJリーグの選手やクラブを知らない中、通訳として最初の監督がオシムさんだったから。
ただ、最初からみんながオシムさんのことを尊敬していたわけじゃなかったよね。厳しいなとか、変わったことやるなって俺も思った。初対面でも、すぐ怒られたし(笑)
けどね、嘘がないんだよな。
勇人)
そうなんですよね。
【逆算して打つ一手】
間瀬)
そういえば、キャンプにオシムさんと俺が途中から入ったから、最初に見たのがいきなり練習試合で、コーチの小倉さんに指揮を執ってもらって、オシムさんはスタンドから試合を見ていた。
オシムさんは巻(誠一郎)に一番反応していたね。
勇人)
へー!
間瀬)
知らない?
勇人)
知らないですね。
間瀬)
巻がむちゃくちゃ走って、戦って。
試合中に頭切って包帯ぐるぐる巻きになったけど、それでも走っていた。
最初はずっと巻って言っていた
勇人)
あの時、僕とか羽生(直剛)さんとか巻さんとか若いメンバーがサブ組で、レギュラー組が試合に負けて走らされたのを覚えてます。
若手にとっては衝撃的で、ああいう人たちに罰走みたいなことをさせるんだと思った。
だったら、うちらにもチャンスあるかも知れないと思いましたね。
間瀬)
そうだね、オシムさんは戦う人、頑張っている人を大事にしていたし、真面目な人が報われる組織にすることが大事なんだなって俺も学んだ。
当時のジェフは中間順位でそれに慣れてしまっていたよね。
例えば走るトレーニングをやっていた時、「もうちょっとペース落とせ」なんて声が出ていたけど、オシムさんはそういうことを許さなくて、チームも徐々に変わっていった。
勇人)
たしかに。
間瀬)
“罰走”でいえば、レギュラー組もそうだし、助っ人外国人であろうが、代表であろうが走らせてたね。
試合に立つ可能性はみんなにあるということで、後に若手がどんどん試合に出るようになったよね。
ただ、めちゃくちゃ計算されていると感じたのは、いきなり若手を試合に出すのではなくて、これまでのスタメンとかを順当に試合に出して、勝てないということをまず見せる。
勇人)
そうでしたね、ジェフでもシーズンが始まってまずは今までのメンバーが試合に出て、初戦はよかったけど、2節目・3節目でやられて、そこからメンバー変わりました。
けど、普通の指導者は負けるかもしれないリスクを負えないですよね。
オシムさんにとってはリスクじゃないんでしょうね。
間瀬)
ふふふ、そうだな。
全体を理解して、逆算して一手目を打っている。
俺らは全体像が分かってないから、一手目だけ、局面だけを見て「えーっ」とか言うけど、オシムさんからしたら、分かってやっていることが多かった。
勇人)
将棋とかチェスみたいに全体を見て、最初の手を打ってたんですよね。
【“指導者”として伝える】
勇人)
通訳の仕事だと、オシムさんが言ったことを全部そのままは伝えてないですよね。
秀さんなりに味付けをして、伝わりやすいようにしているんだろうなと思っていたんですけど、どうだったんですか。
間瀬)
俺とオシムさんって、訳し方を打ち合わせたことは一度もないんだよ。
とはいえ直訳して伝えると、みんなうまく練習できない。
そうすると俺がむちゃくちゃ怒られる。
勇人)
ふふふ。
間瀬)
怒られてもいいんだけど、それじゃあ選手がうまくなれないから、とにかく意図をしっかり伝えることが仕事だと思った。
むしろこっちが指導者でもあるという意識を持っていないといけなくて、ある意味、通訳の仕事を超えていると思ったな。
純粋にこの人の言っていることを選手が実現できたら、選手が成長してチームが勝つと思って通訳してたな。
勇人)
サッカーを深く理解しないと、オシムさんの通訳はできないんですね。
間瀬)
そうだな。
しかし、通訳していて、オシムさんに褒めてもらったことがないんだよ。
選手はいいプレーしたら「ブラボー!」って言ってもらえるじゃん、だから羨ましかったよ。
勇人)
ブラボー無しですか、しんどいですね。
間瀬)
成功して当たり前で、そうじゃないと怒られる。
毎日怒られているイメージしかなかった(笑)
けど、通訳もやめてだいぶ経ったころ、俺が監督になってから読んだサッカー雑誌のインタビューでオシムさんが「通訳というのはすごく難しい、間瀬はクロアチアでサッカーをしていたから、サッカーの理解がスムーズだった」と言っていたのを読んだ。
嬉しかった。
けど、俺に直接言ってくれよ!って思った。
勇人)
絶対言わないですよね(笑)
【一緒に日本代表に行きたかったけど…】
勇人)
オシムさん、日本代表の監督になって、そこで秀さんとも別れたじゃないですか。
もっと一緒に監督、通訳という関係でいたかったんじゃないかと思うんですけど。
これ、ずっと聞きたいって思っていて・・・
間瀬)
そうだね・・・
勇人)
あれだけ濃い時間を過ごして、きっとオシムさんのそばでサッカーも人生も勉強できると感じていたんじゃないかって思っていて。
代表に行くなら、一緒に代表でも仕事したいと思ったんじゃないかなって。
間瀬)
それは、オシムさんも俺も揺れ動いていたと思うよ。
オシムさんとジェフで過ごした3年半は、オシムさんにとっても、俺にとっても、みんなにとっても素晴らしい3年半だった。
その中でいきなりオシムさんが代表監督になって・・・
俺は当然まだ一緒にやりたい、連れて行ってほしいという思いある一方で、もう一つは自分も監督になると決めていたので、ついて行ったらずっと通訳のままだという思いもあった。
でも、忘れもしないんだけど、岐阜でチームのキャンプ中にオシムさんが代表に行くことが発覚して、もうジェフでは指揮を執らないから先に帰るとなった時、スタッフだけでお別れ会として食事会を開いたんだよ。
勇人)
オシムさん嫌がりそうなのに、よく行きましたね。
間瀬)
行ったのは行ったんだよ。
でも、最後にみんなで写真撮ろうとなった時にオシムさん、「俺は写らない」って言ったんだよ。
勇人)
「あなたのための会」なのにですか(笑)
間瀬)
そうなんだよ。
みんながオシムさんのために集まったのに、オシムさんが入ってない記念撮影をする。
その時、オシムさんがこそっと俺のところにきて、俺に「はずれろ」と言った。
俺は「この人、絶対代表に連れて行ってくれる」と思って、嬉しかった。
だから、俺も写真からはずれた。
でも蓋を開いたら代表から通訳の声はかからなくて、(オシムさんの息子の)アマルさんがジェフの監督になって、俺がその通訳として残った。
でも、(オシムさんの奥さんの)アシマさんがいろいろ教えてくれたんだよ。
通訳の能力が高いから、オシムさんは本当は間瀬を連れていきたかったけど、息子のアマルにも間瀬が必要だといってジェフに残したって。
【永遠のファミリー】
勇人)
いま、改めてオシムさんのこと、どう感じていますか。
間瀬)
なんだろうね。
自分に教訓や大切な時間を与えてもらって、亡くなったけど、我々の中には生きていて。
ずっと対話をし続ける。
血はつながっていないけど、オシムさんも俺も勇人も、永遠のファミリーでいたいと思う。
勇人)
それくらい濃い時間を過ごしましたよね。